海苔屋 神戸栄一郎の話-1
生活の為、毎日おすし屋さんや食堂等へ「海苔」の売り込みに走り回った。
昭和三十年、四十年代半ば頃迄は、まだまだ食料は十分ではなく、何でも飛ぶ様に売れた。
その頃、巻きすし一本とうどん一杯で一応腹がふくれたので、すし屋さんは一ヶ月に千枚ぐらいの海苔は使った。従って「海苔」生産は需要に追いつくことはなく、常に売手市場の有利さを満喫してきた。
生産工程に機械類が使用されるようになったのも、この時期からである。
安い値段で比較的、日本人の口に合う巻きずしは人気も高くじゃんじゃん売れた。
そのうちに巻きずしの値下げ競争が始まって、私達も少しでも安い「海苔」を探し廻って、すし屋さんにサービスした。
ちょうどこの頃ーーーーーーーーーーーー
昔からある「アサクサノリ」よりも成長抜群で、大量に育つ新品種が学者先生によって発見されて、またたく間に全国の生産者に拡大した。
この品種名は「ナラワスサビノリ」である。
昭和四十五年から五十年頃のことである。
世間は神武景気から岩戸景気へと経済は発展し、生産者は大型製造機械に先行投資し、大儲けを夢見たのだが、大量の生産ができる機械から出てきた「海苔」の品質には、憂うべき事態が生じていた。
つづく
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